相良知安と東京大学医学部

 政府はドイツ医学採用に伴い、大学東校にドイツ人医学教師を招聘することとした。いわゆる政府お雇い外国人教師です。

 明治4年(1871年)、2名のドイツ人医師、ミュルレル(外科)とホフマン(内科)がやっと来日する。この両名により、大学東校でドイツ医学教育がスタートします。なお両名は明治7年11月に任期満了に付き帰国する。
2名の来日が普佛戦争の勃発で遅延しますが、多数の学生が外人教師の講義を希望したため、知安は帰国前の明治3年に恩師ボードインを横浜へ訪ね、三ヶ月足らずだでしたが講義してもらいました。同年10月蘭医ボードインの帰国に際し、明治政府はその功績にたいし、金三千両を下賜し酬いました。

 残された問題はイギリス人医師のウイリスの処遇であった。ウイリスは、知安や江藤新平・大久保利通の尽力で鹿児島へ招聘されて、医学校兼病院(現在の鹿児島大学医学部の前身)を興し医学教育に専念しました。
彼の門下からは、高木兼寛(脚気予防の発見者。東京慈恵会医科大学の創始者で日本最初の医学博士)や池田謙斎(陸軍医学監・東京大学医学部綜理)などを輩出しました。

東大赤門
※東大赤門

 話は戻りますが、新しい医学校と病院を東京市上野公園に建設したいと考えた「医学校取調御用掛」の相良知安は、恩師のボードインを案内して上野公園を下見します。しかしボードインからは、「東京のような大都市には、上野のその照葉樹林のすばらしさに公園として残すように」と進言した。そこで知安は、その代替地として赤門で有名な旧加賀藩江戸屋敷跡(現在の東京大学本郷キャンパス)に新医学校建設を選定しました。

 明治10(1877)年には11名のドイツ人教師が居たが、中でもベルツ(内科)とスクリバ(外科)は滞日が20年以上に及び、東京帝国大学の双璧とされた。両名の胸像が、東京大学医学部構内に建立されました。

  しかし、明治6年(1872年)に知安へ突然、第一大学区医学校校長と文部省医務局長兼築造局長罷免辞令が下りる。

 失脚した理由は私見だが、

  1. 知安がドイツ医学導入を強力に推進し採用したので、そのためイギリス派の土佐・薩摩藩出身官僚らの恨みを買ったこと
  2. 「明治6年の政変」(征韓論争)で下野した親友の江藤新平を知安が支持したこと

を口実に、政府の反発を受けたのではないか 等が推測される。

 ここで、東京大学医学部の名称と所在地の変遷に触れてみたい。

  1. 種痘所―安政5年(1858年)―東京神田・下谷大槻で伊東玄朴らが開設。
  2. 西洋医学所―文久2年(1862年)―東京下谷和泉橋通―幕府直轄。
  3.  医学所―文久3年(1863年)―同 上―明治元年に新政府が復興。
  4.  医学校兼病院―明治2年(1869年)―同 上-明治政府。
  5.  大学東校―明治2年(1869年)年-同 上-大学南校に対しての名称。
  6.  東校―明治4年(1871年)―同 上-明治政府。
  7.  第一大学区医学校―明治5年(1872年)―同 上。
  8.  東京医学校―明治7年(1874年)―東京本郷区旧加賀屋敷。
  9.  東京大学医学部(第一次)-明治10年(1886年)―本郷区本郷の現在地。

 その後の知安は文部省内の閑職で過ごし、明治18年文部省御用掛として編輯局勤務を最後に一切の官職から退きました。知安の全盛期は、わずか5年余りでありました。

 退官後の知安は、住居を転々とし東京市浅草区元鳥越町、本郷区本郷真砂町、芝区神明町など長屋住まいで、権妻と暮らしながら易者として生活の糧を得ていました。
晩年は知安を訪ねる人も少なく、石黒忠悳(陸軍軍医総監・枢密院顧問官)が変わらぬ友情を示し、援助を申し出ています。副島種臣や後藤新平・北里柴三郎博士も近況を聞き慰問しています。

 医政家として稀代の才と実行力を発揮しながら、不遇な晩年を過ごした知安へ吉報が届きます。明治33(1900)年3月宮内省から、我が国医学制度確立の功績により勲五等双光旭日章授与の通知が届きました。これには石黒博士や田中宮相、岩佐純、池田謙斎、三宅秀、大沢謙二ら医学旧友らが奔走し尽力した結果でありました。

 明治39年(1906年)6月インフルエンザを患い71年の生涯を閉じました。知安の墓所は、「城雲院」(佐賀市唐人2丁目)に眠っています。


※「相良知安先生記念碑」除幕式(昭和10年12月7日:東大医学部構内)

昭和10(1935)年12月7日に「相良知安先生記念碑」が、知安が医学校建設を構想していた上野公園を見渡せる、東京帝国大学医学部構内の池之端門側に建立され、除幕式が挙行されました。昭和10年頃に「同記念碑」建立の気運が、在京の佐賀県人から高まり、全国の医師らを対象に寄附を呼びかけ、当時3千円の費用で完成しました。発起人には、大隈信幸侯爵、鍋島直映男爵、眞崎陸軍大将ら佐賀県出身者及び長与東大総長、級友の石黒忠悳博士、入澤達吉博士、女医の吉岡弥生ら100名が名を連ねました。写真中央前列には、相良知安の長男安道(和服姿)、その左に相良知安の孫に当たる相良潤一郎(医学博士)と隣の少年は、知安玄孫の相良弘道少年(6歳)が参列しました。前方の和服のご婦人は、独逸から帰国されていたE.ベルツ夫人ハナ(花)さんであります。

知安は、当初医学校と病院を上野公園に建設したい構想を持っていましたが、恩師ボードインから、「東京の様な大都市には、照葉樹林の素晴らしさから都市公園として残すように」と進言が有り、知安は彼の進言を受け入れて代替地として旧加賀藩前田家江戸屋敷跡((現在の東大本郷キャンパス)に、医学校建設が選定され決定しました。その経緯から記念碑は、上野公園不忍池を背後に望む、東大池之端門側に建立されたのです。碑文は、石黒忠悳博士の題額と入澤達吉東大名誉教授の撰文があり、高さ4.3メートル、幅は1.8メートルの大きな記念碑です。しかし記念碑は、その後医学部看護宿舎裏の位置にあたり、さらに医学部の建物が建ち並ぶ陰に、ひっそりと樹木に隠れて目立たない存在でした。東京大学医学部の創設は、安政5(1858)年に「幕府種痘所」が、東京神田お玉が池の幕府勘定奉行であった川路聖謨(かわじ としあきら)宅に設置された年とされています。その150周年が平成20(2008)年に当たります。東大医学部・附属病院は、過去に節目となる記念の年には、記念行事や施策事業を実施しています。

記念碑は「東大医学部・附属病院創立150周年記念」事業の一環として、平成19年に東大医学部付属病院入院棟A玄関前の、緑の一角へ移転されました。陽の当たる人目に付く緑の場所への移転に、子孫一同は喜び東大医学部・附属病院当局の御尽力に、深く感謝いたします。

※「相良知安先生記念碑」(東大医学部附属病院入院棟前)

 平成15年4月に郷土佐賀で初開催された「相良 知安展」(於:佐賀市立図書館)は好評で、トーク・ショーも満員の盛会でした。
平成16年8月開館した「佐賀城本丸歴史館」は、観光の拠点として多くの観光客で盛況です。このなかで、「幕末・明治の佐賀の群像たち」コーナーには、佐賀の七賢人をはじめ郷土佐賀から多くの人材を輩出しているなかで、知安も多くの展示がなされました。平成18年(2006年)には、知安没後100年を迎えました。

(了)

【参考文献】
「相良 知安」(鍵山 栄著:日本古医学資料センター 昭和48年 絶版)
「白い激流」(篠田 達明著:新人物往来社 1997年 品切れ)
「新・肥前おんな風土記」(豊増 幸子著:佐賀新聞社 1994年 絶版)
「新装版 日本医家伝」(吉村 昭著:講談社文庫 2002年)
「剣客物語」(子母沢 寛著 文集文庫 1987年 絶版)
「かわず町泰平記」(松浦 沢治著 青磁社 1987年 絶版)
「東京大学医学部百年史」(東京大医学部:1958年 絶版)

 

→相良知安とドイツ医学導入
→相良元貞とベルツ博士

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